はじめに
 現在、我が国を襲っている精神的荒廃と国威低迷の根本原因は、我が国が主権を回復したサンフランシスコ講和条約発効後六十年を経た今日でもなお、言論マスコミ界、政官界、教育界、法曹界が深く侵され宿痾と化している東京裁判史観とGHQによる日本弱体化工作にあり、これを打破しその洗脳から脱却しない限り我が国の真の再生を成し遂げることは出来ない。
 支那事変から大東亜戦争に至る戦いは、日本が戦うことを望まず、平和を希求したにも拘わらず、米英ソ支が巧妙な連携の下に日本に対して行った執拗な挑発と、米英蘭による経済封鎖に続く、事実上のアメリカの対日宣戦布告文書である「ハル・ノート」によって日本を追い詰めた結果起こった戦争であった。しかしその史実に反して、戦後アメリカを中心とする連合国は、戦争を仕掛け、かつ日本各地への無差別爆撃や原爆投下によって百万人近い無辜の民を殺戮した自らの邪悪さを覆い隠すために、東京裁判とGHQ工作によって、逆に、日本は残虐非道な侵略国家であり、平和と民主主義はアメリカによってもたらされたとの洗脳工作を行った。
戦前の我が国は、政党政治の未熟さや統帥権干犯問題に見られるように軍部の横暴や二・二六事件のような不幸な出来事はあったものの、五箇条の御誓文によって誓われたように「広ク会議ヲ興シ、万機公論二決スル」れっきとした議会制民主主義国家であり、「上下心ヲ一ツニシテ盛ニ経綸ヲ行フ」君民一体の比類なき国体を有していたのである。かつて、先住民(インディアン)を滅ぼし、奴隷制度を有し、一九五〇年代以降の激しい公民権運動を経た後の一九七一年まで黒人に参政権を与えなかったアメリカが民主主義をもたらしたなどという物言いは悪い冗談でしかない。GHQの強要によってもたらされたものは、「国の為に義務を尽くして権利を主張しない」我が国民の高貴さと精神的基盤の破壊であり、「義務を尽くさずして権利のみを主張する」スペインの思想家オルテガがいうところの「大衆の反逆」であった。
 昭和史家は先の大戦を「満州事変」を発端とする「十五年戦争」と捉えるが、そのような近視眼的な見方では、「先の大戦の真相と世界史的意義」を見極めることは出来ない。日米武力戦争は昭和二十年八月十五日に終結したが、これはボクシングでいえば前半戦に於いてワンダウンを受けたに過ぎず(1)、筆者はペリー来航以来、「日米百五〇年戦争」として今日もなお姿と形を変え継続しているものと捉える。更に、先の大戦の真相は、遠くはアメリカの建国以来の清教徒的理想主義の仮面を被った覇権主義と欧州列強の東洋侵攻を、また近くはコミンテルンの世界共産化計画を抜きにしては究明出来ないと考える。よって、本稿ではこの視座から大東亜戦争に至る歴史の真相を明らかにすると共に、東京裁判とGHQによる日本弱体化工作と、それに続く日米経済戦争も一貫した日米戦争と捉え、最後に、日本再生への道標を示したい。
 近年、欧州大戦についても、ヒットラーは英米ソとの戦争を望んでおらず、戦争を挑発したのはルーズヴェルト、チャーチル、スターリンの三者であったとの説が出始めており(2)、満州事変についても、日本の一方的な侵略と傀儡国家の建設であったという従来の定説が覆されつつあるが、この問題については紙幅の制約により本稿では触れない。

アメリカ建国の歴史と覇権主義
 キリストは身を捨てて律法(旧約聖書の最初の五書)(3)を狂信したパリサイ人の不正を諌めて「愛の宗教」を説いたが、ローマカトリック教会に対する抗議(プロテスト)として起こったプロテスタントは「旧約に帰れ」と説いた。中でも、カルヴァン派の流れを汲む清教徒は旧約の持つ選民意識、残忍性、世界支配欲を色濃く反映し(4)、一六二〇年以降にアメリカを目指した清教徒はそれを「出エジプト」になぞらえ、アメリカ大陸は約束の地であり、自分たちは選ばれた民であった。そして、彼等清教徒は入植直後から、滅ぼされるべき劣等民族として先住民の掃討を始め、それはその後一八九〇年まで二五〇年余りに亘って進められ、五百万〜一千万人いたと言われていた先住民は絶滅に近い仕打ちを受けた。
 一七七六年の独立宣言直後に制定されたアメリカの国章にはANNUIT COEPTIS(ラテン語で「神は我々の企てにくみせり」の意)及びNOVUS ORDO SECLORUM(同じくラテン語で「新世界秩序」・英語ではNEW WORLD ORDER)(5)の文字が記されており、また、一九三五年に発行され現在も使用されている一ドル紙幣の裏面にも同様の文字が記されているが、これは「アメリカが神意によって『新世界秩序』を築く使命を有している」ということを国家として表明しているものである。
 アメリカは当初東部十三州で独立建国を果たしたが、建国後直ちに西へ西へと領土の拡大を開始した。そして、一八四五年にジョン・オサリバンによって、「マニフェスト・ディスティニー(明白なる使命)」なる標語が提唱されると、アメリカの西進は、更に正当化され勢いを増してテキサスを併合し、三年後の一八四八年には「米墨戦争」によってニューメキシコ、アリゾナ、カリフォルニア等の西部諸地域を強奪して太平洋岸に達した。
 ペリー来航はそれから僅か五年後のことであり、太平洋の制覇に乗り出したアメリカは、一八九八年(明治三十一)には「米西戦争」によって、フィリピン、グアムを領有すると共にハワイを併合して太平洋の覇権構築への橋頭保を築くに至ったのである(6)。
 なお余談ながら、「米墨戦争」に先立ちアラモ砦を陥落させて「リメンバー・アラモ砦」を、また、「米西戦争」では、老朽艦メイン号を爆沈させて「リメンバー・メイン号」との合言葉を唱えて戦争の正当化と戦意高揚を謀ったが、対戦相手国に先に一発を打たせるのがアメリカの常套手段であった。そのようなアメリカ戦史を知ってか知らずか、山本五十六並びに海軍統帥部は真珠湾先制攻撃を行ってアメリカの仕掛けた罠に進んで嵌り(7)、「リメンバー・パールハーバー」の合言葉によって、当時のアメリカ国民の反戦気運を一転させ、戦意を一気に高揚させた。更に、彼等は我が国の基本戦略であった「漸減邀撃作戦」を覆し、陸軍をも巻き込んだ南太平洋に於ける消耗戦に陥らせ、我が国将兵の多くが敵の弾に当たるのではなく、補給路を断たれて餓死病死するに至る悲惨極まりない結果を招いたのであり、彼等の罪は万死に値する。昭和史の大家と称せられる輩が、今日でもなお唱える山本五十六名将説や海軍善玉論も打破されなければならない。

アメリカの対日攻勢と排日・日支の離間工作
 アメリカは早くも、米西戦争の翌年、一八九九年(明治三十二)には国務長官ジョン・ヘイによる「門戸開放通牒」によって支那大陸へ触手を伸ばし、日露戦争が終結(明治三十八年)するや、セオドア・ルーズヴェルトは「余は従来日本びいきであったが、講和会議開催以来、日本びいきではなくなった」と述べると共に、対日戦争計画である「オレンジ計画」の策定を開始し、一九〇九年にはホーマー・リー(後に孫文の軍事顧問)の「日米必戦論」が刊行されて脚光を浴び、この著作は日本でもその二年後に翻訳刊行された。
 また一方、一九〇七年(明治四十)のカリフォルニアにおける反日暴動に端を発した排日は、一九二四年(大正十三)の「絶対的排日移民法」制定によって、それまでの排日が州単位であったのに対し連邦法となり、アメリカは国家として日本人移民を完全に拒否した。しかし、同時期にヨーロッパから渡ってきた移民は毎年五〇万人前後に達していたのであり、日本人移民の数はその一パーセントにも満たなかったのである(8)。
 支那に於いては、ジョン・ヘイの提案により、義和団事件の賠償金によって、一九一一年に支那人クリスチャン留学生の予備校である「清華学院」を北京に設立して、多くの留学生を渡米させ、彼等は帰国後反日親米勢力として活動したが、これは日露戦争後に起こった支那から日本への留学ブームに対する対抗措置でもあった。また、当時支那へ渡っていたアメリカ人宣教師もその数は二千人以上に達しており、彼等は支那の排日運動の黒幕として暗躍した。一九一九年に起こり、排日運動の発端となった「五四運動」に於いても、背後に米公使館と宣教師による煽動工作があったといわれている。
 一九二一年(大正十年)になるとアメリカは第一次世界大戦後、一層国力と存在感を増した日本の封じ込めを謀るために「ワシントン会議」を開いた。先ず、「四カ国条約」によって太平洋の島々の領土と権益の相互尊重と非軍事基地化を唱って「日英同盟を破棄」させながら、米英はハワイとシンガポールを除外して軍事基地の増強を進めた。次に、「五カ国条約」によって海軍力の増強を封じ、日支の協調接近を最も恐れた米英仏は「九カ国条約」によって日本の支那進出抑制と日支の離間を謀ったのである。
 金融の分野では、米英仏は日本に対し、一九二〇年に「新四国借款団」の結成を強要し、日本独自の支那への投資に足枷を加えた(9)。また、言論や文芸の分野に於いても、一九三一年(昭和六)以降のヘンリー・ルースの「タイム」に代表される徹底した蒋介石と宋美齢夫妻の賞賛と対日悪宣伝が展開され(10)、パールバックの「大地」がピューリッツァー賞に続いてノーベル文学賞を受賞し、支那に対するアメリカ国民の友好感情を大きく高めたことも無視できない。

阿片戦争とイギリスの支那支配・抗日支援
 英仏蘭欧州列強の本格的な東洋侵攻は十七世紀初頭の東インド会社設立に端を発し、それ以降東洋のほぼ全域を植民地化した。中でもイギリスはインド、マレー、ビルマを支配下においた後、先鞭を切って支那に進出し、一八四〇年に起こした阿片戦争と南京条約によって広州、上海、寧波、厦門、福州を開港させて租借地を確保し香港島の割譲を得た。
  阿片商人の多くは上海に拠点を構え、その後の「アロー号事件」と「天津条約」によって公認された阿片の輸入に拍車をかけ、清へ送り込まれた阿片の量はピーク時年間約五千トンにも達し、清一国を阿片漬けにして恥じるところがなかった。彼等は、阿片貿易で得た利益を英本国へ送金する為に「香港上海銀行」を設立し、その後、「浙江財閥」とも結託して、支那の金融と経済を牛耳るに至った(11)。一九三七年(昭和十二)に支那事変が起こると、英国は国家として援蒋ルートを通じて軍需物資を支援したが、上海の英国系金融資本も国民党軍へ莫大な資金援助を行って抗日を支援すると共に、アメリカに対し盛んに英米仏による対日禁輸を呼びかけたのである。

コミンテルン工作と日支間の戦争計画
 ソ連と支那国民党は一九一九〜二〇年の第一次、第二次カラハン宣言によって急速に接近し、ワシントン条約(九カ国条約)の枠組みから外れたソ連は外蒙を勢力下に置き、コミンテルンは直ちに工作員マーリンを支那に派遣して支那共産党(コミンテルン支那支部)を設立すると共に国共合作に向けた事前工作を始めた。
 続いて一九二三年(大正十二年)の「孫文・ヨッフェ共同宣言」により、孫文は「連ソ容共」を唱えて直ちに蒋介石をソ連に派遣し、ソ連資金によって陸軍士官学校たる黄埔軍官学校を広州に、支那人革命家の養成所たる中山大学をモスクワに設立するに至った。コミンテルンから派遣された工作員ボロヂンとガーレンはそれぞれ孫文の政治顧問と軍事顧問になり、国民党を牛耳って第一次国共合作を実現させた。孫文は支那の覚醒と自主独立を切に願って支援を惜しまなかった頭山満、宮崎滔天、犬養毅、梅屋庄吉等の誠意を足蹴にし、完全にソ連の軍門に下ったのである。しかし、その後共産勢力の台頭を恐れた蒋介石による、一九二七年四月の「上海反共クーデター」によってソ連からの顧問団は追放され国民党内での影響力を失った。ただし、コミンテルンはその直後の五月に開催された中央執行委員会に於いて、予てから国民党に潜入させていた共産党員の残留を指令している。
 一九三五年になると、コミンテルンは第七回大会に於いて、「人民戦線戦術の樹立」と、米英仏と提携して日独伊と戦う方針を打ち立て、支那に対しては「抗日民族統一戦線」によって、「日支間を全面戦争に導け」との指令を下した。それに応えて、支那共産党の「八一宣言(抗日救国のために全同胞に告ぐる書)」が出されたが、これは支那共産党による事実上の対日宣戦布告であり、翌年十二月の西安事件によって第二次国共合作が成立すると、支那は全面的に抗日戦争へと突入するに至ったのである。今日では、一九三七年七月の盧溝橋事件とそれに続く第二次上海事変は国民党軍に潜入していた共産勢力の陰謀が発端となって起こったことが明らかになっている。また、同年八月二十一日に締結された「ソ支不可侵条約」の附則にはソ連による国民党軍への武器並びに資金の供与と、「国民党はソ連の同意なくして日本との和平又は講和条約を締結せざること」が明記されている(12)。

米英仏ソの急速な接近連携と対支那支援
 ソ連は一九三〇年(昭和五)にリトヴィノフが外相に就任すると、米英仏等の資本主義国との共存に方針を転換した。また、アメリカは一九三三年にフランクリン・ルーズヴェルトが大統領に就任すると直ちにソ連を国家として承認し、米英仏ソは急速に接近して「民主主義対ファシズムの戦い」との構図が宣揚され、ソ連は国際連盟加盟を果たした。しかし、領土拡大や植民地支配による搾取と人種差別の激しかった米英仏の民主主義は白人民主主義であり(13)、権力闘争と粛清を繰り返した恐怖政治国家ソ連が民主主義国家の一員であるというのは噴飯ものである。これに異論を唱えない史家には基本的な思想批判力が欠如しており、近現代史を語る資格は無い。また、日本がファシズム国家であるとの説は作意をもった言い掛かりであり、それでもなお当時の日本はファシズム国家であったと強弁する論者に対しては、「ファシズムの定義を述べ、当時の我が国の政情と比較せよ」と述べれば反論はそれで足りるであろう。むしろ蒋介石国民党こそがファシズムであった。
 一九三七年に支那事変が起こると、米英仏ソは蒋介石国民党及び支那共産党に対し莫大な資金と軍需物資の支援を行った。日支間には互いに正式な宣戦布告がなされていなかった為に、事変と呼ばれて戦争は拡大していったが、互いに宣戦布告がなされていれば、戦時国際法上、交戦相手国への支援は敵対行動であり、日本は事実上背後に有る米英仏ソと戦ったのである。
 蒋介石は東洋の敵たる米英仏ソと戦うことなく、逆に手を握って日本と戦った。詩人高村光太郎は東洋の侵略者と結託する蒋介石の否を詩集「大いなる日に」所収の「沈思せよ蒋先生」という一編によって詠っている(14)。

対日包囲網とアメリカの対英仏ソ支支援
 一九二九年(昭和四)のウォール街に於ける株価暴落に端を発して世界は大恐慌に陥ったが、アメリカは翌年、「スムート・フォーリー法」によって、また、イギリスは一九三二年に「オタワ会議」によってブロック経済化を図った。更にドルとポンドの切下げを行い、フランスが「フランブロック」によって、また、オランダが「緊急輸入制限法」によって追随することにより日本は次第に世界貿易の枠組みから締め出されていった。
  一九三七年になると、ルーズヴェルトによる「日独隔離演説」と翌年の「対日武器禁輸」、翌々年のハル国務長官による「日米航海通商条約の一方的な破棄通告」によって、アメリカは我が国の息の根を止めるべく正面から襲い掛かってきたのである。
 一九四一年三月、アメリカは「レンド・リース法」を制定し、ルーズヴェルトは「アメリカは民主主義国家の兵器廠である」と述べて総額五百億ドル(現在価値にして約七千億ドル)に及ぶ英仏ソ支への軍需物資支援を開始する一方で、日本に対しては在米日本資産の凍結や対日石油全面禁輸を行った。反日史家の多くは日本の仏印進駐が経済封鎖を招いたと主張するが、それは、アメリカ主導によって行われた既定の長期戦略であった(15)。
  一九三九年ソ連はポーランドに続いてフィンランドに侵攻して国際連盟を追放されたにも拘わらず、翌年八月にはバルト三国を併合し、更に、英ソは一九四一年八月、「レンド・リース」法に基づく支援物資の輸送ルート(ペルシャ回廊)を確保するために、イランを挟み撃ちにして占領しているのである。英ソのイラン占領に対し、イラン皇帝レザー・シャー(後に退位させられ亡命)はルーズヴェルトに対し、「領土不拡大を唱えた大西洋憲章に違反する」と提訴したが、ルーズヴェルトは取り合わず、側近には、「大西洋憲章は白人国家のものである」とうそぶいて憚らなかった。
 これに先立ち、イギリスは一九四〇年五月に中立国アイスランドに侵攻し、七月にはアメリカ自身がイギリスの肩代わりをしてアイスランドを占領しており、当時のアメリカ外交が二枚舌であったことは明々白々である。我が国の仏印進駐はフランスとの協定(松岡―アンリ協定)に基づいて行われた、援蒋ルート封鎖を目的とした行動であり、同時期に行われた米英ソの他国侵攻に大義はなく、日本の仏印進駐を非難する資格はない。

共産主義勢力のアメリカ潜入
 近年ヴェノナ文書の解読と公開により、ルーズヴェルト政権内部に多くのコミンテルン工作員が潜入していたことや、ニューディーラーの大半が共産主義者であったことが明らかになっているが、知識人の共産主義化によって体制内部からの革命を目指したフランクフルト学派の工作も見逃せない(16)。同派はドイツのフランクフルト大学の「社会研究所」を起点としたが、ナチスの政権獲得により、一斉にアメリカに亡命して拠点をコロンビア大学に移し、開戦後間もない一九四二年六月に設立されたOSS(戦略情報局)に大挙して入り込んだ。そこで彼等は、日本占領計画である「日本計画」を策定し、やがてこの計画はGHQの民生局に踏襲されていった。
 このように、ルーズヴェルト政権はルーズヴェルト自身が社会主義者であったといわれているが、各方面から共産主義勢力に侵食されていたのであり、この点を直視しなければ、ルーズヴェルトのなりふり構わぬソ連支援は理解出来ない。

アメリカは何故日本を標的にしたのか
 欧米列強にとって、日本の存在と日支の協調接近は、彼等の東洋植民地支配を根底から脅かすものであった。特に、アメリカの太平洋での覇権構築にとって、彼等と異なる価値観と民族文化を有し、キリスト教化を受け付けない独立主権国家日本の存在は最大の障害であった。
  日米の衝突は、通説では、支那大陸の権益をめぐって起こったと考えられているが、私見によれは、それはアメリカが日本に対する攻撃の口実を得るための手段に過ぎなかったのであり、標的は初めから日本であったと考える。さもなければ、大戦が終結した途端に、手の平を返すようにアメリカが蒋介石に対しあれ程冷淡になり、何故あのようにやすやすと支那大陸を、そして、朝鮮半島北部までをも共産勢力に明け渡してしまったのか理解に苦しむものであり、かかる考えに傾かざるを得ないのである(17)。しかし、この問題については、この視点による専門史家の今後の研究解明に期待したい。

東京裁判とGHQの日本弱体化工作
 開戦前に日米交渉に当った野村、来栖両全権大使は、ただアメリカの時間稼ぎに翻弄されていただけのように思われているが、来栖大使が開戦一年後に行った講演「日米交渉の経緯」には、日本がアメリカの悪意を正確に読み取っていたことが記されており、感慨深いものがある(18)。
 また、硫黄島守備に当った市丸海軍少将が栗林陸軍中将と共に最後の総攻撃に臨む直前に記した「ルーズヴェルトニ與フル書」にも(19)、東洋征覇を目指したアングロサクソンの非道と我が国が開戦のやむなきに至った経緯が切々と述べられているが、何よりも、我が国が開戦を決意した経緯については「開戦の詔書」とそれに続く「帝國政府聲明」に言い尽くされている。我が国は世界の情勢を把握することなく、やみくもに無謀な戦争に突入した訳ではない。対日包囲網の中にあって、ハル・ノートを突き付けられた時点で、我が国に残されていた道は、ハル・ノートを受入れ、戦わずして屈従の道をたどるか、それとも、勝敗を超えて敢然と必戦の決意を固めるかの二つに一つしか残されていなかったのであり(20)、当時多くの国民は、十二月八日を、先行きに対する言い知れぬ不安感と共に、息の詰まるような圧迫感からの解放と「ついに来るべきものが来た」との覚悟を固めて迎えたのである(21)。
 そして、終戦直後の国民の多くは江藤淳氏がその著「閉ざされた言語空間」でいうように、あのような戦争と敗戦の悲惨な結末は自らの「愚かさ」や「不正」がもたらしたものとは少しも考えていなかったのであり、この多くの日本人の静かなる不服従に脅威を抱いたGHQは、占領後直ちに、予てから準備していた「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画)」と「東京裁判」を実行に移し、彼等の攻撃の手は、我が国民の心の中に目標を定めたのである。
 先ず、「降伏文書調印」の直後から報道、出版はもとより私信に至るまでの検閲によって言論を封じた上で、公職追放によって、各界に於いて、祖国の存亡をかけて奮戦した二十万人余りの人々を一掃した後、その空いたポストを敵国に媚び諂った戦後利得者である左翼売国勢力に占拠させた(22)。更に、七千冊以上に及ぶ書籍の焚書によって我が国の大義と歴史の真相を闇に葬り、洗脳番組の報道と神道指令や教育改革、占領憲法などの押しつけによって我が国の精神的な基盤を破壊した。
  東京裁判の不正については語り尽くされているためにここでは触れないが、これらの洗脳工作によって、国民の多くが、先の大戦は邪悪な侵略国家であった日本によって引き起こされたとの贖罪意識を植え付けられた。そのために、散華された二百万余柱の英霊は残虐非道な侵略戦争のために戦ったとの烙印を押され、英霊に対する慰霊の心を失わせ、今日なお、各地の戦跡に眠る、約半数、百万余柱もの英霊の遺骨を収拾することなく、恬として恥じない国情を生み出してしまったのである。

日米戦争は姿と形を変えて現在も続いている
 アメリカはペリー来航以来今日に至るまで、日本に対して真に友好的であったことは一度も無い(23)。サンフランシスコ講和条約発効後も、我が国を自己決定権の持てないアメリカ覇権の手足となる隷属国家に仕立ててきた。
 一九六〇年代の「日米貿易摩擦」に始まり、「プラザ合意」、「日米構造協議」、「日米経済包括協議」、「年次改革要望書」と手を変え品を変えながら、アメリカは日本の金融と経済のしくみや日本型経営の基盤を破壊し続ける一方で、米国債購入やアメリカ起因による円高への為替介入によって生じた為替差損などによって日本から富を奪い続けた。そもそも、「日米構造協議」とは協議ではなく、「日本の構造は間違っており、アメリカ主導により、アメリカ流の(正しい)構造に改革させる」という作意を持って行われたものである。
 我が国は、GHQの日本弱体化工作によって二度とアメリカの脅威とならないように精神的な基盤を破壊されたが、それに続いて日本社会の構造基盤をも破壊されたのであり、日本の強さの基盤を失った。これは筆者が日米戦争は姿と形を変えて現在も継続しているという所以であり、連戦連敗の状態が続いているのである。

日本再生への道標
 最後に我が国がこれから再生へ向けて進むべき道標について示したい。
一、先ず第一に先の大戦で散華された英霊の慰霊と残された遺骨の収拾である。
   先の大戦に於いて、我が国は、仕掛けられた戦争に対し、やむなく決然と立ち上がり、我が将兵は祖国の存亡をかけ、東亜の解放を願って勇猛果敢に立派に戦ったのである。この史実を国民の多くが正しく認識し、東京裁判史観とGHQ工作の呪縛を解き、二百万余英霊に対し感謝の誠を捧げて御霊を安んじ奉り、我が国再生への御加護を祈念しなければならない。そして、今なお各地の戦跡に眠る百万余柱の英霊の遺骨収拾を国家として全力で行い、首相閣僚はもとより、天皇陛下の靖国神社御親拝を実現した時が、真に我が民族が誇りと自信を取り戻した時と言えるであろう。
二、正しい歴史教科書の普及
   自国が残虐非道を尽くした侵略国家であったと教えられて育った子供達に、健全な精神が育成される筈はない。歴史教科書から虚偽捏造の自虐史観を一掃し、子供達が自国に対して誇りと自信を持てるようになる教科書づくりとその普及が急務である。
三、家族家庭の再生
   現在、我が国は深刻な少子化問題を抱えているが、子供は国や社会が育てるのではなく、親が育てるのが第一義である。戦後の混乱期に於いて、我が父祖は、日々の食糧に事欠く中にあっても懸命に子供を育てた。少子化対策として子供手当や婚外子支援、はたまた外国人労働者の導入を唱える輩がいるが、本末転倒も甚だしい。先ずは、我が国の家庭の雰囲気が温和に保持され、家族の絆と祖先を敬い家系を守る気概を養うことが最重要課題であり、ジェンダ・フリー、過激な性教育、夫婦別姓、男女共同参画などによって家族破壊を押し進めてきたことが少子化の元凶である。
四、グローバリズムとの対決
   ゲェテは「親和力」に於いて、「種に於いて完成されたものが、初めて種を超えて普遍性を持つ」と述べているが(24)、世界中を席巻するグローバリズムの波は「種」としての「民族国家の個性」を喪失せしめ、世界をボーダレスで無性格な弱肉強食の草刈り場と化そうとするものである。むしろ、今、我が国がなすべきは、世界情勢の動向を諦視しつつ、グローバリズムの波に対して防波堤を築き、グローバリズムによって破壊された我が国本来の社会構造基盤の再生に努めるべきである。
   今や国力が衰退傾向に陥り、半ば手負いの獅子となりつつあるアメリカは、昨今のTPP問題にとどまらず、今後一層凶暴になり、自らの国益追求のために更に過激な攻撃を仕掛けてくるように思えてならない。
五、自主憲法制定
   自主憲法制定については多くを触れないが、立案に先立ち、「万古不易、我が国を我が国たらしめてきた根源は何か」、「我が祖先が建国以来築き守ってきた国柄(国体)や伝統とは何か」を見つめ直し、次に「自主防衛体制」の確立を目指すことが最重要課題と考える。そもそも自国の防衛を駐留費を払って他国に依存する国は真の独立国家とはいえない。我が国がこの二つの課題の回復に努めるようになれば、現在我が国が抱えている多くの難問は解決の方向に向かうに違いない。
六、孤独を恐れず、我が国の正しさを正面に掲げて中韓との激論を戦わす
   アメリカは我が国と近隣諸国との友好を望まない。東京裁判によって突然表に出された「南京大虐殺」(25)、アメリカの傀儡として大統領となった李承晩による「竹島不法占拠」、ヤルタ秘密協定によって生じた「ソ連の北方領土不法占拠」等、アメリカは戦後、我が国と近隣諸国との間に対立の火種を意図的に残し、今日でも、二〇〇七年の米下院に於ける「従軍慰安婦問題の対日謝罪要求決議」に代表されるような楔を打ち込み、北朝鮮の核開発もなし崩し的に容認し、中国の軍拡も、自国の軍事プレゼンスの正当化のために必要としているのではないかとさえ疑われる。
 中韓との軋轢は謝罪し補償することでは永久に解決されない。我が国は孤独を恐れず、支那事変は支那側から布告なく先に仕掛けてきたために勃発した戦争であったこと、そして、「南京大虐殺」も「従軍慰安婦問題」も全くの虚偽捏造であることを主張して「村山談話」と「河野談話」を破棄無効とし、韓国が今日有るのは、日本の統治と戦後の経済や技術支援の寄与大なることを堂々と正面に掲げた中韓との真っ向勝負の激論を戦わさなければこの問題を解決することは出来ない。あわせて大東亜戦争もアメリカが仕掛けた戦争であることを主張して「東京裁判」を否定しなければならない。その時、米国、中国、韓国は彼らの主張する正義が崩壊するためにそれを最も恐れているのであり、他のアジア諸国からは必ずや支持と歓迎を受けるであろう。それらを乗り越えて初めて「大東亜戦争の世界史的意義」が明らかになり、我が国は世界の平和と繁栄に貢献する国として世界史の新たなステージに立ち、「日米百五十年戦争」にも終止符を打つ道が開けるものと確信する。
 我が国は今日なお、GHQによる日本弱体化工作の毒が全身に回っており、内閣が代わるたびに「村山談話」を踏絵にし、今日では虚偽捏造であることが明らかになった「南京大虐殺」についても、それを記載しなければ教科書検定に合格しない自己検閲状態が続き、病膏肓に入っている感がある。
 しかし、潮流は表層が東から西へ向かっているようでも、下層では逆に西から東へ向かっていることがあるように、また、「陰窮まって陽を生ず」とも言い、昨今の「河村市長発言」や「石原都知事の尖閣購入発言」を支援する国民的なうねりが見られ、日本を貶め続けてきた「従軍慰安婦問題」はもとより「バターン死の行進」も憂国の史家の努力によって、全くの虚偽捏造であることが明らかになってきた。また、一九五一年五月の米国上院軍事外交合同委員会に於ける「連合国側の経済封鎖によって追い詰められた日本が、主に自衛(安全保障)上の理由から戦争に走った」とのマッカーサー発言が、都立高校の、平成二十四年度版地理歴史教材に新たに記載されることになり、底流では、我が国再生への流れが勢いを増して来ているように思われる。
 来年、平成二十五年は二十年毎に斎行されてきた伊勢神宮の式年遷宮の年に当る。神宮の御社が東の敷地から西の敷地へお移りになる時は、国威発揚の時期であると言われており(26)、これからの二十年が、日本が本来の日本を取り戻し、世界に向かって羽ばたくために、孤独を恐れず、宿命としての孤独に耐え、眦を決して戦う秋である。


(1) 日本は武力戦に敗れたが、戦争はその目的を達成した方が勝者であるという。我が国の戦争目的の一つは東亜の解放でありその目的は果たしたが、欧米列強の目的は何んであり、その目的は果たされたのであろうか。
(2) 月刊誌「正論」二〇一二年一月号掲載の、青山学院大学教授・福井義高氏の「さらば、『正義の連合国』史 観」等に見られる。
(3) モーゼが神の啓示を受けて著したとされる旧約聖書の最初の五書、即ち「創世記」、「出エジプト記」、「レビ 記」、「民数記」、「申命記」。モーゼ五書ともいう。
(4) 選民意識、残忍性、世界支配欲は律法の随所に見られるが、代表的な例としては左記のような記述があり、旧 約聖書を深く信仰する(アメリカのキリスト教原理主義者は旧約の無謬性を信仰の中心に据えている)ことは自ずと選民意識、残忍性、世界支配欲を抱くことにつながる。 「我汝の子孫を増して天の星の如くなし、汝の子孫に凡てこれらの国を与へん、汝の子孫によりて天下皆 福祉を得べし」(創世記二十六章四)。「汝は汝の神エホバの汝に付し給はん民を尽く滅ぼし尽くすぺし、彼 等を憐れみ見るべからず、また彼らの神に事ふべからず」(申命記七章十六)。「我が今日汝等に命ずる一切 の誡命を守り行わば、汝の神エホバ汝をして他の諸々の国人の上に立たしめ給ふべし」(申命記二十八章一)。 〔日本聖書協会編・文語訳〕
(5) ブッシュ父は一九九一年九月十一日の一般教書演説に於いて「新世界秩序」なる標語を持ち出したがこれは、 この言葉が今日のアメリカに於いても生きた標語であることを示している。
(6) アメリカのハワイ併合工作に脅威を抱いたカラカウア国王は、一八八一年(明治十四年)来日の際に明治天皇 に姻戚関係になることを求めた。また、フィリピン植民地化の際にアメリカは、アギナルド将軍率いる一万八千人の独立軍兵士とその家族を中心とする二十万人もの一般住民を虐殺した(高山正之「偏見自在」)。
(7) ルーズヴェルトは「私は宣戦はしない。戦争を作るのだ」と述べ、「ハル・ノート」手交直後にハルはスチムソン陸軍長官に対し「私のすることは終わった、後は君とノックス海軍長官の仕事だ」と述べた。また、ロバート・スティネットによって一九四〇年十月の「マッカラム覚書(対日戦争挑発計画8項目)」の存在が明らかにされ、開戦直後にルーズヴェルトによって任命された「ロバーツ委員会の報告書」には、開戦約十ケ月前にノックスが「日米開戦は空襲による真珠湾攻撃で始まる」ことを記していること、また、ハル・ノート手交直後に陸海軍の首脳に対し「戦闘開始準備の秘密命令」が出されていたことが明記されている。
(8) 一八八五〜一九二四年の三十九年間にアメリカに渡った日本人移民の数は約十八万人と言われており、年平均約四千六百人であった。    
(9) 「香港上海銀行」他の英米の銀行と日本の「横浜正金銀行」とによって設立された借款団であり、以後、支那 への投資は借款団を通して行われることになり、支那に於ける日本の地位を覆す狙いがあった。
(10)ルースは一八九八年アメリカ人宣教師の子として青島で生まれ、十四歳まで支那で過ごした。「タイム」、「フォ ーチューン」、「ライフ」を創刊し、一九三一年以降蒋介石が「タイム」の表紙を飾ること五回にも及び、「敬虔 なクリスチャンである蒋夫妻はアメリカと価値観を共有し、蒋介石は支那統一をもたらす極東で最も偉大な人 物である」と言って賞賛した。しかし、その一方では、一九三八年六月に日本軍の進撃を阻止するために蒋介石が行った「黄河決壊」によって、一説には百万人近い死者を出したが「タイム」誌他はこれを黙殺した。尚、ルースは自らも重慶を訪問して蒋介石と会談し、一九四二年の宋美齢訪米とルーズヴェルトとの会談や国会での演説をお膳立てした。
(11)宋嘉樹を中心とした、上海を拠点にして支那経済を支配した浙江・江蘇両省出身者による金融資本団。蒋介石 による上海反共クーデターを支援。宋霞齢(孔祥熙夫人)、宋慶齢(孫文夫人)、宋子文(国民党幹部)、宋美齢 (蒋介石夫人)は宋家の四兄弟。一九三五年の「支那貨幣改革」は英経済特使リース・ロス指導の下に上海の 英国系金融資本と浙江財閥によって行われた。
(12)第七回大会にはゾルゲも出席した。また、盧溝橋事件直後に支那共産党に対し「あくまで局地戦を避け日支を 全面的戦争に導け」、「右の目的を貫徹するために、あらゆる手段を利用すべく、局地解決や日本への譲歩に依 って、支那の解放運動を裏切ろうとする要人を抹殺してもよい」他の指令を出した。                            コミンテルンの支那工作については興亜院政務部資料「コミンテルン並びに蘇連邦の対支政策に関する基本 資料・昭和十四年十月(国立国会図書館蔵)」に詳しく書かれている。当時の政府もコミンテルンの工作を正 確に把握しており、後の「日独伊防共協定」につながる。尚、興亜院は対支政策を統一指揮する目的で千九 百三十八年(昭和十三年)に設立された内閣直属の機関。総裁は内閣総理大臣が兼務した。一九四二年に大東亜に 改編。   
(13)一九四三年にベンガルで起こった飢饉では数百万人が餓死したと言われている。起因は前年襲ったサイクロン による食料不足にも拘わらず、英印軍向けに行った強引な調達による食料価格の高騰であったが、印度人に対 する人種的嫌悪感からチャーチルが対策を怠ったことが最大の原因であった。また、イギリスは国内での階級 差別も激しく、それは、会田雄次氏の「アーロン収容所」に上流階級以外にはなれなかった将校と一般の兵と の間に著しい身長体格差があったと記述されていることに端的に表われている。
(14)次の下りがある。「先生は抗日一本槍に民心を導いた。抗日思想のある限り、東亜に平和は来ない。先生は東亜 の平和と共栄を好まないか。今でも彼等異人種の手足となってゐる気か。わたくしは先生の真意が知りたい」。 しかし、光太郎は戦後GHQの洗脳工作により自らを暗愚であったと述べるに至った。
(15)対日経済封鎖に至る過程は左記年表のようになり、アメリカを中心とする連合国が自らは他国を侵略しつつ、 長期戦略として日本に対する経済封鎖を行った理不尽さは明白である。 また、東京裁判のローガン弁護人は最終弁論に於いて、「パリ不戦条約」の草案者の一人ケロッグ国務長官に よる一九二八年十二月の上院外交委員会に於ける発言、「経済封鎖は断然戦争行為である」を引いて反論してお り、当時の米国の共通認識によれば「経済封鎖は宣戦布告」であった。

(16)西欧に於いて労働者階級煽動による共産主義革命が行き詰まりを見せる中で、一九二三年、ルカーチを中心と   する共産主義者が起こした学派であり、知識人の共産主義化により体制内部に入り、体制否定の理論(宗教、   家族制度、父権、権威、性的節度、伝統、国家、愛国心、畏敬心等、人間の徳目と価値の破壊)による体制の   内部崩壊を目指した。一九六〇年〜七〇年代の新左翼全共闘学生は同学派の一人マルクーゼを理論的柱とした が、その後、彼等の多くは政・官・学・財の体制内部に入り込んで行った。最近のジェンダ・フリーと過激な 性教育、夫婦別姓、外国人参政権付与、人権侵害救済案等はその流れをくむ者と公職追放後各界に送り込まれ た左翼売国勢力の影響下に育った者の工作である。
(17)英国の史家クリストファー・ソーンは、その著「太平洋戦争とは何だったのか」の中で次のように述べており、 ルーズヴェルトとスターリンの間で米ソによる世界分割統治の密約が交わされていたため、日本を倒した後、 蒋介石は用済みとなり使い捨てされたのではないかと推定される。
*「カサブランカ会談からヤルタ会談のあいだに、ルーズヴェルトに対するチャーチルの影響力は低下して いった。中略。 (財務長官ヘンリー・モーゲンソーが一九四四年一月、カイロ、テヘランの両会談に出席 した同僚の印象をもとにして述べているように、「ルーズヴェルト=スターリン・ラインが強力になり、 それにほぼ反比例してルーズヴェルト=チャーチル・ラインが弱くなって、モーゲンソーがそのことを大 統領に話したとき、大統領自身は否定しなかった) また、一九四五年十二月から約一年間支那全権特使を勤めたマーシャルが、国民党軍が攻勢の時期になぜ国     共間の停戦協定を強要し、更に、なぜアメリカの国民党軍への軍需物資支援を差し止め、支援を求めて訪米した宋美齢に協力を示さなかったのかについても解明されなければならない。
(18)来栖三郎著「大東亜戦争の発火点・日米交渉の経緯」〔GHQ焚書図書〕。
(19)この書簡は、米軍の手に渡り(ルーズヴェルトは四月十二日に急死)、原本はアナポリス海軍兵学校に保管され ているが、その写しが靖国神社遊就館に展示されている。欧米列強の東洋侵略に対し左記のように抗議してい る下りがある。
※卿等は既に充分なる繁栄にも満足することなく、数百年来の卿等の搾取より免れんとする是等憐れむべ き人類の希望の芽を何が故にわか葉(ワカバ)において摘み取らんとするや。ただ東洋のものを東洋に帰 すに過ぎざるや。卿等何すれぞ斯くの如く貪欲にしてかつ狭量なる。 (20)東京裁判に於ける、東條・キーナン対決に於いて、東條元首相は「乙案のどの一項目でも、あなたのお国が受 諾したら、真に太平洋の平和を欲し、互譲の精神をもって臨んでくれれば、戦争は起こらなかった(要約)」と 述べている。
(21)高村光太郎は詩集「大いなる日に」所収の「十二月八日」で次のように詠っており、軍人嫌いであった武者小 路実篤でさえも手記の中で「これで死ねる」と記している。 *記憶せよ、十二月八日。この日世界の歴史あらたまる。アングロサクソンの主権、この日東亜の陸と海 とに否定さる。中略。世界の富を壟断するもの、強豪米英一族の力、われらの国に於て否定さる。われ らの否定は義による。東亜を東亜にかへせといふのみ。彼等の搾取に隣邦ことごとく痩せたり。われら まさに其の爪牙を摧かんとす。われら自ら力を養ひてひとたび起つ。老若男女みな兵なり。大敵非をさ とるに至るまでわれらは戦ふ。世界の歴史を両断する、十二月八日を記憶せよ。
(22)中でも、東京大学を中心とする旧帝国大学を占拠した者の代表格、横田喜三郎(著作「天皇制」によって天皇 を否定)、宮沢俊義等の教育を受けた者が、その後官界、法曹界に与えた影響は大きく、外交官となった教え子 の一人が「日本は罪を犯したハンディキャップ国家(前科者)である」と主張したのち外務事務次官や国連大 使となり我が国外交の手足を縛って国益を損ねたことは顕著な例である。
(23)ミズリー号上での「降伏文書調印式」の際に式場に掲げられた星条旗の一つは、ペリー来航時の旗艦に掲げら れていた星数三十一の旗であり、場所は浦賀沖であった。これはペリー来航から九十二年を経て日本占領を果 たしたことをアメリカが表明したことを意味する。事実、当日のニューヨーク・タイムズは「我々は初めてペ リー以来の願望を果たした、もはや太平洋に邪魔者はいなくなった」と記している。
(24)「親和力」第二部九章の「オッティーリエの日記から」に次のように書かれている。「ある調べで鳴いているか ぎりは、ナイチンゲール(夜啼き鶯)もまだ鳥である。しかしその調べを超えると、ナイチンゲールという鳥 の種類の枠を超えてしまい、およそ鳥が歌を歌うとはどのようなことであるかを鳥一般に知らしめているよう に思われる。種に於いて完成されたものは種を超えていくに違いない。それは何か別のもの、比類を絶したも のになっていくに違いない」。
(25)「南京大虐殺」はもとより、連合国側の残虐非道を覆い隠すために「国民党のプロパガンダ」を東京裁判に於い て取り上げたものであるが、アイリス・チャンの「ザ・レイプ・オブ南京」の刊行時にはニューヨーク・タイ ムズ、ワシントン・ポストなどの大新聞は絶賛して大々的に紹介した。
(26)多少の周期のずれや、時代に応じた転調はあるが、明治開国以降の約百五十年を振り返ると左記のようになる。
*第五十五回(明治二年、東の敷地へ)維新後の国づくり期。第五十六回(明治二十二年、西の敷地へ) 日清日露の戦役を経て世界へ飛躍。第五十七回(明治四十二年、東の敷地へ)大正時代を中心とする低 迷期。第五十八回(昭和四年、西の敷地へ)満州事変から大東亜戦争へ。第五十九回(昭和二十八年、 東の敷地へ)戦後の復興期。第六十回(昭和四十八年、西の敷地へ)日本経済の安定成長期。ジャパン・ アズ・ナンバーワン。第六十一回(平成五年、東の敷地へ)バブル崩壊と失われた二十年。第六十二回 (平成二十五年、西の敷地へ)真の日本再生期。